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私にとって祈ること

神の存在や魂の存在を信じていないが、よく祈っている。毎朝、仏壇でご先祖の戒名を読み上げ、家族の健康などを祈っている。
これも毎朝だが、「生きとし生けるものが幸せになりますように・・・」という慈悲の瞑想をしている。そしてこころが不安定な時はお墓で父母に祈る。
祈る行為は原始時代から見られるが、人間の本性に組み込まれているのだろう。なぜ、祈ると心が休まるのだろう。この一つの回答が、「よい遺伝子をオンにする」(村上遺伝子の世界的権威)の説である。この説には惹かれる。遺伝子は、個人を越えたものだからグレートネイチャーという祈る対象にふさわしいからだ。
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14日 体調があまりよくなく、強風なので自重して家に。体調は良くないが気分は良く、生きるテンションは上がっている。仕事は一応果たしたし、将棋は勝ったし、リハビリの歩数も少し伸びた。楽しいこと探しを毎日しているが、今晩から、自家中毒で控えていたアルコールを少し試してみようと思っている。これが成功すれば、楽しみが一つ加わる。

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死後の世界?


死は無だから、死後の世界は存在しないということは確信を持ってる。しかし、まだどこかに言い切れないものが残っているのだろう。
死後の世界の記事があるとたいてい読んでいる。週刊現代だが、養老孟司は「こころは機能だから、肉体が滅びれば心も消えるといっている」この考えは随分前からあって私の確信でもある。中村うさぎも臨死体験から死ねば無であるといっている。tだ週刊誌のこういう記事には、前世の記憶(一種の輪廻転生)の話が出てくる。いまだ、科学的に解明されないみたいだ。
24日から27日まで。
特筆することはなく、嫌な不愉快なことはごくわずかで、北公園、筍林の整理、ジムの卓球など楽しんでいる。ただ一日、なんとなく熱があるように感じた日があり、コロナもあるので半日寝ていた。この間テレビドラマを楽しむ。春ドラは好きなドラマが多い。
図書館で借りた藤沢周平なども少し読む。
今は庭が楽しい。写真はストロベリーキャンドルを中心にした雑草園。ボケた写真で分からないが、ナガミヒナゲシ、矢車草、セキチク、釣り鐘水仙、ノースポール、ナデシコなどが咲いている。
土の所はこれから、向日葵とコスモスを予定している。

人間はあるがまま、そのままでいい 余語翆厳

切り抜きを読み返していると余語翆巌の「人間はあるがままでいい」という切り抜きがあった。
この人曹洞宗の高僧だったが、徹底した絶対観にたった。これに立てば、浄不浄、益無益、貴賤、美醜などはすべて人間の計らいだから考える必要がない。
存在しているそれでいい。本当は、いいも悪いもない。存在しているというだけだ。それでは、悪人でもいいのかといえそうだが、この宗教観から言えば悪人でも、ありのままでいい。悪人という定義は人間の計らいだからである。

例えば、弱小動物にとってライオンはいのちを奪うのだから悪獣だろう。だから、ライオンは存在しては困るとはいえない。

こう思えば、悪人も宗教の世界から見たら、そのまま存在していていいといえる。

この観点から、身近なことをいえば、一日を精一杯生きたかどうか評価することはない。どんな一日であろうと、ありのままの一日で足りる。寝る前の反省の後にはこう思うことにした。
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整形で骨密度の検査。腎機能は回復したが、骨密度が下がる。特に骨芽細胞の働きが衰弱。そろそろ注射と言われている。副作用もあるので迷うが、来年はやってみるかという気になっている。
・ジャグジー・筋トレ・卓球を楽しんできた。サイゼリヤでガーリックトーストと̪シチュウ―。

玄侑宗久「禅的生活」からの示唆

この角度から禅のことについて書かれた本を私は知らない。すぐれた本だと思う。
読み始めたところだが、ヒントを貰ったので書いて置く。
一つは、意識するということである。普通、心は理性と感情があると思っている。例えば、人から不当なことをされた時、感情的には怒りが生じる。相手を殴るかもしれない。しかし、理性が働いて、殴れば自分も罰せられるかもしれないと思い、感情を抑える。理性こそ自分であると思うことが多い。
しかし、もう一つのやり方がある。それは怒っている自分を意識することである。「自分は怒っている」といはば実況放送することである。実況放送をすれば、怒りは静まってくるが、言いたいことはそういうことではない。この意識は自分であるが、感情でもなく理性でもない。言はば、自分から離れている自分である。
瞑想法で呼吸に意識を向けるがその時の意識と同じである。自分であって自分ではない。だから、自分から離れられる。
もう一つは、脳には四つの機能があるということである。
ます、外から刺激を受けると感覚となる(例えば人から殴られた痛み)、それが感情になる(怒り)、次に右脳によりイメージとなる(なぜ殴るのだ)、それが左脳に行き思考(あるいは言語化されて、悪い奴だから警察に通報しよう)。
ところが、この流れが逆流することがある。彼奴は悪い奴だと左脳が考えれば、怒りの感情が沸き起こる。
この逆流を防ぐために禅では、感覚だけに集中する(感覚は今だけだから今に集中せよ)といい、逆流することを妄想といって嫌うのではないかと思う。
本から離れて自分の頭で整理したが、こう考えると禅や瞑想が目指すものが少し分かった気がする。瞑想だけに限れば、自分の行為や考えを実況放送するということである(このやり方は認知療法でも使われることがある)。
少し大きい文字

盆支度と魂の存在



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昨日から盆の支度を始めた。仏壇とは別に盆棚を作り、ここに位牌を移つし、特別の飾りをする。昔は、飾りつけが大変だったが、子供の代では無理だろうと思い、簡略化に寒緑化を重ね、今では生け花風の飾りつけで済ましている。

私は50代くらいから一貫して、死後の世界や魂などはないと思っている。しかし、感覚的には、死ねば父母などに会えると思えるし、お墓や仏壇の前や盆棚は異空間であると感じられる。

実に多くの人が、死後の世界は分からないのだから、死後の世界はないと言い切るのはむしろ非科学的だといっている。それが、啓蒙的な意味で、方便としていうならいいが、本当にそう思っているのなら、おかしいと思う。

感覚的には魂はあると思えるので、お盆が近づくと死者の気配が濃くなる。
俳句にすれば「盆近し死者の気配の身ほとりに」といった感じである。それでいつもより死者との対話が多くなる。

私もそろそろ黄泉に行くのだが、ぎりぎりご先祖様たちに許してもらえるかなという人生を送ってきた。「このままで終わりそうだから、あまり叱らないでね」といっている。お爺さんたちは分からないが、私の父母は、なんでも私の自由にしてくれたから、怒ることはあるまいと思う。土産話は尽きぬほどある。

お迎え火はできるだけ早く焚こう。

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・今日は俳句研究会。まず充実した3時間であった。
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死ぬまで楽しい生活ご機嫌な
日々、充実した日々を目指すための
自分へのつぶやきです。

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